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 ケイ・キンが自由気ままにいろんな話題について書いています。
  (写真は本文と関係があったり、なかったり・・・、です)
20101212  
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2010.12.12  地図を見るのが楽しい!  
 
 地図を見るのが好きである。子供の頃からずっとそうだった。学校の教科書は全然痛まないのに、なぜか地図帳だけはボロボロに・・・(なんのこっちゃ)
 当然、子供の頃には自分が住んでいる町の地図をよく眺め、小学生の低学年では都道府県単位になり、高学年になると日本地図を舐めつくし、中学生、高校生になると世界地図の虜になったものである。
 
 だから、僕は地理という教科が好きだった。そして、その好きという感覚は大人になった今日でも続いている。たとえば、旅行を計画していて、どのコースを行こうかと地図を眺めて思案するとき、旅行が終わった後、実際にどの道を通ったのかを確認するときなど、もうルンルンなのである。(とても楽しいのだ)
 もっと身近な例では、サイクリングのコースを計画するときや、サイクリング中の計画変更で知らない道を走ったコースを確認するときなどがそうですね。
 
 ところで、世間では「地図を見る」と「地図を読む」の違いについて、話題になることがあるようです。僕の解釈では、山、川、道路、町などの配置を確認し、「この町からこの町まで、川沿いの道路を使えば5キロメートルの距離になるのか」といった場合は「地図を見る」ということになり、「等高線の間隔からいえば、この道はかなり急な上り坂だなあ」とか、「田畑の配置や集落の状況からみると、このあたりは古い町並みかもしれない」といった場合は「地図を読む」ということになるのかなあと思ったりもするが、はっきり言って、どうでもいいことである。地図を見るという行動は、自然にどちらの要素も含んでいるからだ。
 
 また、「国土地理院発行の2万5千分の1の地図こそが地図である」という意見もあるようだが、それは専門家に任せておけばいい話である。2次元の紙(地図)から3次元の世界(いわゆる3D)を読み取るのには適しているかもしれないが、日常生活では、学問的な地図記号よりも、具体的に何があるのかを表示してくれている各出版社の地図の方が、断然役に立つと思うからである。
 
 近年では、地図を発展させた、あるいは地図に変わるアイテムとして、航空写真(たとえばグーグル・アース)を気軽に楽しめるようになりました。これはすごいですねえ。パソコンの画面で世界旅行ができるのですから・・・
 欲を言えば、全世界の隅から隅まで、精度の高い航空写真を提供していただけると、もっと嬉しいのですが・・・
 
 あ、そうそう、地図といえば、どの地図も北が上になっていますよね。日本史や世界史に係る本を読んでいて、たまたま地図を上下逆さまにして見たことがあります。すると、歴史上の人物の行動が、すごく理解しやすいということに気がつきました。素人ながらの発見です。
 だから、南を上にした地図を発行すると、意外と売れるかもしれないぞ。
 ま、結局は物好きな人間しか買わないかもね・・・(たとえば俺)
 
 
 
20101113  
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2010.11.13  原風景は失われていくもの?  
 
 休日のサイクリングで、「今日はどこへ行こうか?」と考えていたとき、ふとある場所を思い出した。高校生のころ、友人たちと夏休みにキャンプをした清流の河原である。
 そこは、ある川の上流で辺りに人家はなく、道と川だけが山と山に挟まれていて、渓谷とまではいかないが、景色がとてもいい場所なのだ。
 「よし、あの思い出の場所へ行ってみよう」
 自転車で行くには少し距離があるので、早めに出発した。そして、ペダルを回しながら、ルンルン気分で当時のことを思い出していた。
 
 〜 そこは大きな河原だった。川が蛇行している所で、すぐ下流に小さなダムがあった。貯水ダムというよりは砂防ダムといった感じかな。で、ダムの上から飛び込んで泳いだりした。水はものすごく冷たかったなあ。
 近くに住んでいる子供たちが泳ぎに来ていて仲良くなったが、彼らはなんと、ダムの下流側に飛び込むのである。水面を指差して、深い所、浅い所を教えてくれるのだが、結局誰も飛び込まなかった。(次元が違う)
 
 夕方になると、河原で飯盒炊さんをした。焚き方が「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いても蓋とるな」のあれである。ところが、三つある飯盒のうち、一つだけがなかなか炊けないのだ。「変だなあ」といって中を確かめると、なんと玄米だったのである。I 君が納屋から間違えて持ってきたらしい。
 そんなわけで、生まれて初めて玄米のカレーライスを食べる羽目になった。よく噛まないと駄目だが、これが意外と美味しいのである。(I 君、ありがとう)
 
 日が暮れるころ、川面におびただしい数の蜉蝣(カゲロウ)が飛んでいた。川の水がきれいな証拠である。残りの焚火で、昼間に獲った川魚やサツマイモを焼いて食べた。河原の石が透き通るほどの強い火力だったので、サツマイモはほとんど炭の状態になってしまったが・・・(もう大笑い) 〜
 「ああ、ほんとに楽しかったなあ」
 
 自転車の景色は農村から谷間に変わり、いよいよその場所が見えてきた。
 ところが、「あれ?・・・、なんか様子が変だな」
 自由に入れたはずの河原の入口にロープが張ってあり、変な看板があった。「有料駐車場入り口?1000円?徒歩での進入につき通行料頂きます?大人五百円・小人三百円?」何なんだ?これは・・・、なんか涙が出てきた。
 あの大きな河原もなくなっていた。川から十段ほどの石段に囲まれた更地になってしまっている。有料キャンプ場になったのなら、それはそれでいい。ただ、僕の原風景ともいえる思い出の場所は、そこにはなかった。
 「でも、あれから30年以上も経っているし、仕方がないよなあ・・・」
 
 人にはそれぞれの原風景というものがある。
 じゃあ、僕の原風景は失われてしまったのか?
 いや、心配しなくていい。心の中にしっかりと残っている・・・
 
 
 
20101017  
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2010.10.17  音楽は話題になりにくい?  
 
 音楽の話題から遠ざかって久しい。新曲も作りかけてからバタッと止まっている。頭の中では構想がいろいろと浮かんでいるのだが、あまり力が入らない状態だ。ま、焦りは禁物、波が来るのを待とう。
 いまのところ、サイクリングをしたり、ハイキングに参加したり、写真を撮ったり、映画やドラマを観ているのが楽しい。もちろん音楽もよく聴いている。ただ、自由な時間が限られているし、身体は一つしかない。(ううっ)
 
 そういえば、友人との会話でも、音楽のことをあまり話題にしなくなった。年を重ねるごとに話題も変化していて、最近は、仕事場や家族の人間関係についてとか、時事問題とかいった話題が多い。将来、みんなの腰が曲がるころには、年金や病気の話題が増えていくだろう。
 
 なぜ、音楽が話題になりにくいのか。
 「好きな食べ物は何?」とか、「どんなタイプの女性が好き?」とかいった話題は、説明するときに使う言葉がお互いに理解できるので、比較的会話になりやすい。
 ところが、音楽の話題では、人それぞれの嗜好が細分化されすぎていて、お互いに知らないアーティストの名前が出てきたりすると、その時点でもう理解ができなくなるので、どうしても会話が弾まなくなってしまう。
 
 ただ、音楽の話題でも、嗜好に関する価値観のぶつかり合いになると、たしかに会話になりにくいが、疑問を解消させるための質問なら、どんどんしてもいいのではないだろうか。たとえば、「君はどんな音楽が好きなの?」というのはNGであるが、「サックスは木管楽器なの?」はOKだと思うのである。
 もっとも、コミュニケーションが上手な人どうしなら、こんな心配をする必要はまったくない。どんな話題でも会話は弾むだろう・・・
 
 中学生のころ、音楽に興味を持ち始めたときは、いろんなアーティストのことを知っている友人たちとよく話をした。僕はほとんど何も知らないという状態だったので、いつも聞き役だった。でも、共通の話題であったし、僕には「何でも知りたい」という欲求があったから、当時は会話が弾んだのかもしれない。
 友人たちは、「お前、知らんの?」という話し方は一切しなかった。いつも丁寧に、わかりやすく教えてくれたものだ。感謝している。
 
 昨今では、友人が携帯音楽を楽しんでいても、「どんな音楽を聴いているの?」とか、「どんな音楽が好きなの?」とかいった質問は極力しないことにしている。仮に聞いてみたところで、濁したような答えしか返ってこないだろうし、本音はおそらく「俺がどんな音楽を聴こうが、放っておいてくれ」である。
 (単なる思い込みかもしれないが、それでいいと思っている)
 
 その代わり、もし僕が誰かに「どんな音楽が好きなの?」と聞かれたら、相手が疲れ果てるまで、延々としゃべり続けるだろうな。
 
 
 
20100919  
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2010.09.19  それぞれの人生に、乾杯!  
 
 10年くらい前から、僕は仕事帰りに、いろんな職業の人が集まる社交場、「立ち飲み」によく通うようになった。もちろん、一人で入るのだ。
 若い頃は誰かを誘って、どんな店なんだろうとドキドキして入ったものだが、いまでは一人でも気軽に入れるようになったし、長居無用のこのスタイルの店が、自分の性に合っていると感じるようになった。
 
 お酒に強いほうではない。ただ飲みたいだけなのである。(好き、とも言う)
 ほんの少しの時間であるが、熱燗をクッと一杯飲んで、「ああ、今日も生きている」と、心の中で呟くのだ。至福のときである。
 
 さて、僕が通っている「立ち飲み」は、若い人向けというよりも、昭和の時代を感じさせるようなお店なので、比較的年配のお客さんが多い。だから僕なんかは、まだまだ若造の部類である。
 「立ち飲み」というところは、どの店でもそうだが、必ず店を仕切っている常連のお客さんがいる。店が混んでいるときにお客さんが来ると、「あ、そこ入れるで、そこのお兄さん、ごめん、少し詰めたってえな」という具合に・・・
 
 この常連のお客さんの人柄がどうであるかは、自分がこれから通い続けるかどうかを決めるにあたって、とても重大な要素でもある。
 そして、通い続けるうちに、お店のおねえさん(相対的な呼称)のあいさつが「いらっしゃい」から「○○ちゃん、お帰り〜」に変わり、また常連客のおじさんからも、「お兄ちゃん、お帰り、今日も暑かったやろ?」と声をかけられるようになって、「ああ、やっと僕もメンバーに加えてもらったんだなあ」と感じるのである。
 
 プロ野球の話、相撲の話、いろんな話題で店の中は盛り上がるのだが、団塊の世代の人たちが多いせいか、時代の移り変わりについてもよく話題になる。おじさんたちの経験話や苦労話を聞くと、すごくいい勉強になるのだ。
 僕も仲間に入れてもらって、いろんなことを教わりました。で、思ったのは、人生の先輩には絶対に勝てないということである。子供の頃に、年上の人を敬いなさいとよく言われたが、ようやく意味がわかったような気がする。
 
 こんな風に、毎日(ほぼ?)おいしいお酒を飲むことができるなんて、つくづく幸せだなあと思う。みんながそれぞれの、いろんな人生を歩んでいる。そのいろんな人生が出会い、自分ひとりだけが生きているのではないと実感できる場所、それが「立ち飲み」である。
 
 こんな若造でありますが、これからもよろしくお願いします。そして、
 「みなさんの、それぞれの人生に、乾杯!」
 
 
 
20100816  
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2010.08.16  片付ける気には、なったのだが!  
 
 いよいよ片付ける気になった。一年くらい前のトピック、「20090913 やはり整理整頓しないとダメ?」で言っていた、文庫本や雑誌などが無造作に積まれている書棚のことだ。この何日かのお盆休みで、整理整頓しようと決心したのである。ゴールデンウィークやお盆休みの頃は、行楽地のどこへ行っても人が多い。混雑しているとわかっていて、わざわざ出かけるのも嫌だったし・・・、それに道路渋滞のニュースを見るたびに憂鬱になる。
 
 あ、話を戻そう。片付ける気になったきっかけは、カセットデッキが壊れてしまったことである。ショックだったが、考えてみれば、音楽を楽しむのであればCDがあるし、録音もパソコンでできる。そこで、未練はあるが、カセットデッキとカセットテープを思い切って処分することにした。
 そして、「よし、この際だから、ビデオテープ、文庫本、雑誌、漫画本、書類やグッズなども、不用なものは処分するぞ〜っ」となった。
 
 ところが、いざ始めてみると、意外と大変な作業だなと思った。どれが不用なものなのかという判断が難しいのである。覚悟を決めて、判断基準をグッと上げた。「これは残しておいた方がいつか役に立つかもしれない」と考えずに、「これは無いからといって困るものではない」という具合に・・・
 
 それともう一つは、意外と時間がかかることだ。
 文庫本を整理していて、「あれ? この本、俺が買ったのか? どんな内容だったっけ」と呟いては、パラパラとめくって少し読んでみたりする。
 (いかん、はやく片付けなきゃ・・・)
 古い写真が出てくると、「おっ、懐かしい写真だなあ、一緒に写っているあいつ、元気にしてるかな?」と呟いては、ボーっと眺めたりする。
 (いかん、はやく片付けなきゃ・・・)
 とまあ、こんな感じで、遅々として進まないのである。これは誤算だった。
 
 ただ不思議に思ったのは、片付けているうちに、徐々に心が軽くなっていくという感じを覚えたことである。もしかしたら、物を片付けるという行為は、心の中も一緒に整理しているってことかもしれない。
 もしそうであれば、なにも急ぐことはない。こつこつと続けよう。
 (現実に、まだたくさん残っている)
 
 残念なのは、いままで大事に持っていたものでも、処分すると決めた瞬間からただのゴミになってしまうということだ。少し心が痛む・・・
 
 とにかく、今ある書棚だけでは足りない。これからは余裕を持って整理整頓してやろう・・・、ということで、和ダンスの上のスペースを利用して、新しいラック(H90・W90・D30)を置いてみた。うん、いい感じだ。
 でも、本来は床に置くものなので、やや危険である。で、転倒防止用の金具を取り付けました。
 
 よし、これで心のスペースも少しは広がるだろう。たぶん…
 
 
 
20100719  
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2010.07.19  ドラマはハッピーエンドがいいね!  
 
 韓流って何だろうと、ずっとそう思っていた。そんな僕が最近、パソコンの動画サイトで韓国ドラマをよく見ている。人に言わせると、これがいわゆる「ハマっている」という状態なのだろうか。でもまあ、韓国ドラマに関心を持つようになったのは事実である。きっかけは「たまたま」だった。
 
 何年か前のある晩のことだ。たまたまテレビのスイッチを入れると、たまたまNHKが映り、あるドラマが始まろうとしていた。ややセピア色をした町の風景があって、坂道を女性が走って降りてくる。日本の古いドラマなのかなと思っていたら、自動車が道の右側を走っているし、俳優の発したセリフが韓国語なのである。「冬のソナタ」の第1話だった。面白いと思ったし、結局は最終話まで観ることになってしまった。
 
 韓国ドラマの特徴は、いい人と悪い人とがはっきりと区分されていることだ。そして、主人公には必ずライバルが現れ、よきアドバイザーとしての友人や先輩に励まされながら、苦難に立ち向かっていくというパターンが多い。つまり、話としてはわかりやすいのだ。それと、親子間の葛藤がよく描かれるが、日本とは違って、親を大事にするという場面が非常に多い。
 ただ、記憶喪失、交通事故、死に至る重大な病気など、極端なストーリー展開が多いのには閉口することもあるが・・・
 
 僕が今までに観た韓国ドラマの中で、いちばんのお気に入りは「彼女がラブハンター」という全16話のドラマである。
 ストーリーは・・・、大学時代にクィーンともてはやされたオ・スジョンという女性が、ソウル大学法学部卒で将来有望のコ・マンスというデブで冴えない男と結婚することになるのだが、結婚式当日に司法試験の3次面接で落ちたことを知り、式場から逃げてしまう。ところが8年後に、デブから超イケメンに変身し、アメリカでプロゴルファーとして成功したコ・マンス(渡米してからはカール・コと名乗る)と再会することになるのだ。玉の輿を狙いながらも気がつけばオールドミスになっていたオ・スジョンは、コ・マンスに猛アタックをするのだが・・・、といったラブコメディの物語である。
 結末までは言わないが、ハッピーエンドなのだ。
 
 最終話を観ると、「She's a Love Hunter」を「彼女はラブハンター」ではなく「彼女がラブハンター」とされたことの意味がよくわかる。原題は「カールハンター オ・スジョン」である。このドラマでは、オ・スジョン役のオム・ジョンファさんの演技がとても素晴らしい。彼女は「12月の熱帯夜」という別のドラマでも名演技ぶりを発揮しているが、こちらは結末が悲しいので残念だ。
 やっぱりドラマは、ハッピーエンドがいいですね。
 
 ところで白状するが、第7話の頃、どうしても続きを早く観たかったので、DVDを購入したのである。
 このドラマは、何度観ても飽きないですねえ。
 「ううっ、完全にハマってしまった・・・」
 
 
 
20100613  
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2010.06.13  時間がゆったりと流れている?  
 
 某スーパーマーケットの、大きな庇の下にある白いベンチ。すぐ近くにトイレがあって、真横には缶コーヒーの自動販売機もある。自宅からこの方角に向かってサイクリングをするときは、必ずこのベンチで休憩している。
 いわゆるお気に入りの場所である。
 真夏の炎天下であっても、この場所だけはそよ風が吹いていて、すごく気持ちがいいのだ。また、冬の寒い日でも、季節風がまともに当たることはない。たぶん、建物の向きがいいのだろう。
 ベンチに座ると、目の前は駐車場である。汗を拭いた後、缶コーヒーを飲みながら行き交う人々を観察する。
 これがまた楽しい。
 
 軽トラックが目の前に止まった。運転していたのは初老の男性だが、サングラスをかけた精悍な顔つきである。若い頃はきっと女性にモテたんだろうなあ・・・と、想像してみたりする。
 
 作業服姿の中年男性が横切った。買い物袋の中身はお弁当とお茶のようだ。独身の方なのかなあ、いや、仕事が終わって家に帰ると家族が待っているんだろうなあ・・・と、また想像してみたりする。
 
 小さな男の子を二人連れた、若い奥さまが近づいてきた。手に持っている大きなビニール袋に、ペットボトルや空き缶がたくさん詰まっている。どうやらリサイクルの分別収集箱に入れるためのようだ。一人の男の子が言った。
 「お母さん、ペットボトルはこの箱だよね」
 微笑ましい。この子たちは、物を大切にするいい大人になるだろう。
 
 いつのまにか、子犬を抱いたおじさんが隣に座っていた。
 「こんにちは、かわいい子犬ですねえ」と声をかけたそのとき、駐車場で「わあ〜ん、わあ〜ん」という子供の泣き声が・・・、5歳くらいの男の子だ。
 お母さんとおばあちゃんと一緒に買い物に来たようだが、欲しかったものを買ってもらえなかったらしい。おばあちゃんが叱っているのだが、男の子は泣きじゃくるばかりで自動車に乗ろうとしない。泣きやむまで放っておけばいいのに…、と思っていたら、おばあちゃんがとうとう言ってしまった。
 「また買ってあげるから」
 すると、隣のおじさんがすかさず僕に言うのだ。
 「あれを言ってしまったらダメですねえ。解決したことにならないですよ」
 何のことはない。同じようなことを考えていたわけである。
 
 何気ない日常の、何気ない風景。何かに追われているわけでもなく、また何かを追うこともない。僕はただベンチに座っているだけ・・・
 いま、時間はゆったりと流れている。ふと、そう思った。
 
 
 
20100516  
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2010.05.16  映画の中の、もうひとつの人生!  
 
 「文学は、もうひとつの人生を私たちに与えてくれます」
 もうずいぶん昔のことであるが、某女子大の教授が講演でこのようなことをおっしゃった。とても印象的だったので、よく憶えている。僕は思った。この言葉は文学だけではなく、映画にも当てはまる言葉ではなかろうかと・・・
 もっとも、日本では古くから数多くの文学作品が映画化されていますから、あながち的外れでもないだろう。
 
 僕が映画を好きになったきっかけは、小学生の頃に観た「小さな恋のメロディ」というイギリスの映画だった。この映画を観たときに、映画館のスクリーンの中に自分が入り込んでしまうという、あの妙な感じを初めて覚えたのである。
 
 ストーリーは、11歳(小学生?)の少年と少女が相思相愛になり、同級生たちと授業を抜け出して結婚式を挙げ、最後はトロッコに乗って見知らぬ土地へ旅立っていくというもので、展開は幼稚であるが、純粋な恋愛物語である。
 当時、テレビのワイドショーでも話題になり、世のお母さまたちが、「小学生が結婚するなんてとんでもない」とか、「二人の将来はいったいどうなるのか」などと真剣に議論していましたねえ・・・、ってアホか。ただの物語である。
 
 この映画を観ていて、僕は主人公の少年になりきってしまった。年齢がちょうど僕と同じくらいだったからかもしれない。相手役の少女がまるで自分の恋人であるかのようで、すごくドキドキしました。いわゆる錯覚である。
 このように、主人公になったつもりでいろいろな体験をすることができるという楽しみ方を覚えてから、僕は映画をよく観るようになった。
 
 どこの国の映画であるかというこだわりはない。アメリカ映画の特徴だとか、フランスやイタリアを代表とするヨーロッパ映画の特徴だとかがよく述べられているが、あくまでもそれぞれの作品である。主題やあらすじなどを読んでから、観たいかどうかを決めればよいと思っている。
 ただ、ノンフィクション小説が映画化されたものや、現実に起こりうるであろうと思われる恋愛ドラマなどを観るのが比較的多い。もしかしたら、自分が主人公になりきれるかどうかを意識しているのかもしれない。つまり、もうひとつの人生を体験したいという欲望である。
 
 近年ではテレビでも、あるいはインターネットの動画サイトでも気軽にたくさんの映画を楽しめるようになった。
 もちろん、映画館の大画面と大音響の中で楽しむのがベストであることは否定しないが、僕は真夜中に一人でこっそりと楽しむのが好きである。そのほうが画面の中に入り込みやすいのだ。それに、大粒の涙を流しても、誰にも見られないで済む。
 
 さてと、今夜は誰になろうかな。各国で暗躍するスパイにでもなるか・・・
 
 
 
20100418  
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2010.04.18  ある一本の木との出会い!  
 
 去年の今頃、ある一本の木と出会った。春の陽気に誘われて、サイクリングをしていたときのことだ。菜の花が咲き誇る、川沿いの道にその木はあった。僕は思わず自転車を止め、しばし見入ってしまいました。
 「うん、なんて美しい姿なんだろう」
 まわりに人家はなく、ひっそりとたたずむその姿が、美しさをより神秘的なものにしていると思えた。と、感動するのは僕だけだろうか・・・
 
 とにかく、全体の形がすごくいいのだ。ちょうど新芽が吹き出た頃で、枝ぶりがよくわかった。幹から枝にかけて描いている線は、まるで動脈から毛細血管にかけての血液の流れのようにも見える。そう、生命を感じるのだ。
 何という木なのかはわからない。名前はどうでもよかった。そして、ごく自然に、僕は持っていたカメラで撮影したのだった。
 「よし、ときどきこの木に会いに来よう」
 
 二週間ほど経つと、鮮やかな新緑の姿に変わっていた。
 「おおっ、もうこんなに葉がついているのか。それにしても、やっぱり美しい」
 
 その後、約3ヶ月の期間はその木を見ていない。忘れていたのである。
 「あ、そうだ、あの木に会いに行かなくちゃ」
 思い出したのは、真夏が過ぎようとするお盆の頃だった。久しぶりに見たその木は、両手をいっぱいに広げて、燦々と降り注ぐ陽光を浴びていました。
 
 秋になると、ところどころの葉が茶色になっていた。人が中年になって、白髪を気にするのと似たような感じかな・・・
 で、よく見ると、少し実がなっていた。
 「あれ、なんだ、柿の木だったのか」
 秋も深まり、肌寒い頃になると、葉よりも実のほうが目立つようになってきた。でも、とても食えるような実じゃなかったなあ。もしかしたら、柿の仲間の「猿食わず」という木かもしれない。(たぶん・・・)
 
 そして冬になり、残り少ない実も支えきれなくなって、とうとう幹と枝だけの姿に戻ってしまった。こうして僕は、この木とともに四季の移り変わりを感じたのだった。
 とても感謝している。「一年間、ありがとう」
 
 ところが、である。この春に見に行くと、姿が少し変わってしまっていた。道に向かって延びていた枝が切り取られていたのである。人々の通行の邪魔になっていたから、仕方がないのかもしれない。
 この世では、風雪に耐える木よりも、ぬくぬくと暮らす人間さまのほうが偉いのだ。(なんか変?)
 「バランスのとれた美しい姿じゃなくなったけど、今年もがんばろうな」
 この木の物語を、大きい写真(9枚)で見る
 
 
 
20100314  
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2010.03.14  なぜ食べられないのかなあ?  
 
 私事であるが、健康診断の血液検査で引っ掛かってしまった。白血球と中性脂肪が異常数値だったらしい。再検査を受けたところ、いずれも正常値であり、健康診断の前日のお酒が過ぎたのかもしれないということで落ち着いた。
 それはまあいい。本題はこれからである。
 
 お医者さんの話によると、僕の場合、LDLコレステロール値が高いのだとか・・・、いわゆる悪玉コレステロールである。で、食事制限というわけではないが、卵や乳製品、小魚は避け、特にタラコやイクラは食べないほうがいいとのことだった。
 ショックだった。タラコは僕の大好物なのである。タラコだけでご飯が食べられるし、タラコだけでお酒も飲める・・・(実はこっそり食べている?)
 まあ、今のところ、HDLの善玉コレステロール値も高いので、大げさな話ではないらしい。経過を観察してみようということになった。
 
 さて、食べ物のことだが・・・、プロフィールのページでは、好きな食べ物を「焼きそば、ラーメン」と紹介しているが、僕は何でも食べるほうで、あまり好き嫌いはない。だから、献立の不明な日替わり弁当でもOKだ。
 ところが、である。たったひとつだけ例外があって、ウズラの卵だけがどうしても食べられないのだ。
 
 そのいきさつは、こうである。小学生のころ、家族で外食をし、帰宅してから気分が悪くなって吐いたことがあった。で、母親がこう言った。
 「どうしてなのかなあ、今日食べたものでいつもと違うものといえば、チャンポン麺に入っていたウズラの卵が悪かったのかなあ」
 僕の心の中に、ウズラの卵という言葉がインプットされた瞬間だ。でも、その日の出来事についてはすっかり忘れてしまった。
 
 そして、何年か後、学校の給食でウズラの卵のフライが出た。―○○○、こんな形をしたやつである。僕は何も思わずに食べた。すると、また気分が悪くなって吐いてしまったのである。
 以前の出来事はすっかり忘れてしまっていたはずなのに、潜在意識として残っていたのかもしれない。そのとき、子供ながらに決心したのだ。
 「一生、ウズラの卵は食べないぞ」
 子供のころの食べず嫌いは何でも克服してきたのに、ウズラの卵だけが食べられないなんて、ちょっとくやしい気もするが・・・
 
 もしかして、僕の前世はウズラだったのかも・・・、じゃあ、今度はカラスに生まれ変わりたいなあ。ケイ・キンの顔をしたカラスが大空を飛びまわるのだ。
 (もう、話がばらばらである)
 
 
 
20100215  
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2010.02.15  Windows7よ、こんにちは!  
  
 先日、メールチェックをしようと思い、パソコンの電源をONにしたら、いつのまにかショートカットのアイコンが減っていました。しかも、Outlook Expressを起動させたら、今までのメールがどこにもないのだ。まさかと思い、Cドライブの空き領域を確認してみた。なんと400MBしかなかった。
 「ひえ〜〜〜〜〜ざん、延暦寺〜っ」などと言っている場合ではない。
 とうとうやってしまった。Cドライブがぶっ飛んだのである。
 
 日頃から不要なソフトやファイルを削除するなどして、気をつけていたつもりだったのですが、油断していましたねえ。ま、自分が悪いのだから仕方がありません。幸い、今までに作った音楽やホームページのファイル、それと写真のファイルなどの大部分は、Dドライブや外付けハードディスクに保存していましたから、大勢には影響がない。でも、くやしい。
 
 パソコンはWindowsXPの80GBのモデルなのだが、リカバリをしてみたところで、また同じことを繰り返すかもしれない。それに、今後はパソコンでもっと動画を楽しみたいので、いまのメモリでは不足だと思うし・・・
 「よし、思い切って、新しいパソコンを買おう」
 というわけで、Windows7のノートパソコンを購入したのである。ハードディスクの容量は500GBで、メモリはなんと4GBもあるのだ。(わあ〜い)
 必要な設定をして、さっそく使ってみた。「うわあ、軽い〜、速い〜」
 もう、言うことなしである。
 
 いろいろ考えた結果、インターネットやメール、ホームページの作成・管理などは新しいWindows7のパソコンを使用し、音楽制作だけは従来どおりXPのパソコンを使用することにしました。なぜかというと、音楽制作関係のソフトがXPに対応しているのはまちがいないが、Windows7では動作環境が保障されていないからである。(ただ単に、ソフトが古いだけであるが・・・)
 ただし、ホームページビルダーだけはWindows7用に、新しいバージョンのソフトを買いました。これだけでも痛い出費である。
 
 で、XPのパソコンは、Cドライブの領域を少し増やして(いわゆるパーテーションサイズの変更)リカバリを実行し、音楽制作環境を元どおりに復活させました。いやあ、それにしても、やれやれである。ここ何日かの休日は、家に閉じこもりっぱなしでしたからねえ。
 今後は、必要なファイルを確実にバックアップするよう、心がけようと思いました。メールもDドライブに保存したほうがいいかもしれないですね。
 
 よし、今度の休日がいい天気だったら、久しぶりにサイクリングに出かけてやるぞ〜っ。(あまりにも寒い日なら中止になるかも・・・)
 
 
 
20100117  
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2010.01.17  うわあ、面白い言葉だなあ!  
 
 「酷道」って言葉があるのですねえ。先日、ある動画サイトを見て初めて知りました。ちゃんとウィキペディアにも載っている。
 〜酷道(こくどう)とは一般国道のうち乗用車による通行が困難であるなど「国道」と呼ぶにはふさわしくない、文字通り「酷(ひど)い状態の国道」を揶揄した日本語の用語(略語)である。〜
 だそうである。しかも、古くから新聞や道路地図、また国会発言でも引用としての使用例があったらしい。面白いネーミングだと思った。
 
 「国道」は本来、国(国家)が建設し、維持・管理する幹線道路のことであるが、ふんだんに予算があって建設あるいは改修されていれば、「酷道」なんて言葉は生まれなかったかもしれませんね。
 酷道と呼ばれる箇所は、ほとんどが峠道のようです。日本は国土の大部分が山岳地帯ですから、どうしても峠道が多いのだが、昔の人々が歩いて移動していたころは、道幅もそんなに必要なかっただろう。
 
 そして、自動車が往来する時代となり、街道だった主要な道路は国道として整備されていくが、交通量の少ない地方にある峠道は、あまり重要視されず後回しになったのではなかろうか。とりあえず車が通行できるくらいにはしておこうという感じで・・・
 ま、徐々にではあるが、本来の峠道とは別にバイパスを作ったり、トンネルを掘ったりして、道路がどんどん改修されているのも事実です。ただ、予算の関係でニーズに追いつかないという状態なのかもしれません。
 
 それはさておき、僕が面白いと思ったのは、その「酷道」をレポートしている動画がたくさんの人によって投稿されていることだ。自動車やオートバイの車載カメラによる映像であるが、見ていてすごく楽しいのである。
 自分ならば絶対に通りたくないという道を紹介していただき、その上、まるで自分が運転しているかのような気分にさせてもらえるのだ。
 
 国道を、いや酷道をドライブするのが趣味だと公言する人もいる。酷道であればあるほど嬉しいのだとか・・・、ある意味、羨ましい話である。
 だけど、映像を編集するのも大変そうですね。自動車を運転するわけですから、それなりに時間がかかります。単調な区間は倍速や3倍速にしたり、見せ場になると説明や感想などのテロップを入れたり・・・
 このテロップを読むのもなかなか楽しい。
 
 酷道というものは将来になくなればいいのでしょうけれど、うん待てよ、酷道を「酷(ひど)い道」じゃなくて「酷(こく)のある道」と解釈すれば、なくなってしまうのが逆に惜しいような気もしますねえ・・・
 
 
 
 
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